第2次バルカン戦争
第1次バルカン戦争の後、
オスマン帝国領であったマケドニア地方は、
セルビア・ブルガリア・ギリシャで分割することになったが、
その分配をめぐって不満であったブルガリアが、
西暦1913年6月にセルビア・ギリシャに侵攻して戦争となった。
ブルガリアの強大化を恐れたオスマン帝国、
モンテネグロ、
ルーマニアがセルビア・ギリシャ側についたためブルガリアの孤立した戦いとなった。
エンヴェル=パシャの指揮するオスマン帝国軍が1ヶ月の戦闘でブルガリアを破り、
戦争はブルガリアの敗北で終わり、
8月にブカレスト講和条約が締結された。
ブルガリア領の縮小
ブカレスト講和条約でブルガリアは、
エデルネと東トラキアの一部をオスマン帝国に、
南ドブロジャ(黒海沿岸)をルーマニアに、
マケドニアの北部をセルビアに、
マケドニア南部をギリシャに割譲した。
またセルビアのコソヴォ支配は確定し、
ギリシャはオスマン帝国からエーゲ海東岸の島々から獲得した。
ここで領土を縮小したブルガリアはドイツ・オーストリア陣営に接近する。
勝った側のセルビア、モンテネグロなども領土的不満を残し、
第一次世界大戦でもバルカンでの対立はそのまま二つの陣営に分かれて戦うこととなる。
マケドニアの分割
このときセルビア・ブルガリア・ギリシャの三国によって分割されたのが、
かつてのアレクサンドロスの故国マケドニアであった。
そのうちセルビア領となったマケドニアは、
ユーゴスラビア王国の一部となり、
第二次世界大戦後の
西暦1945年にユーゴスラヴィア連邦を構成する一共和国となった。
さらにユーゴスラヴィア連邦の崩壊によって
西暦1991年に独立した。
しかし、
現在のマケドニアは第2次バルカン戦争でギリシャ領・ブルガリア領となった地域も併合したいと意欲を持っており、
現在も紛争の火種となっている。