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バルカン戦争

作成日:2024/7/17

未完

バルカン戦争は、 オスマン帝国の弱体化に乗じたバルカン諸国の領土拡張抗争。 第1次は西暦1912年のバルカン同盟諸国とオスマン帝国が戦い、第2次は1913年にブルガリアとセルビアなどが戦った。バルカン問題から起こった戦争であったが、第一次世界大戦の直接的誘因となった。

よみがな順で記載する。

年表

西暦784年允恭天皇10年)
  • あああ
  • (この年)
    • あああ

バルカン同盟

バルカン同盟

西暦1912年5月、 ロシアに支援されたバルカン半島の諸国家が、 オスマン帝国に対する共同防御を目的としてに結成した軍事同盟である。 セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシャの間で個別に結ばれた。 また付属の秘密協定で、戦争勝利後の領土分配を取り決めていた。

ロシアがこれを支援したのは、 オーストリア=ハンガリー帝国のバルカン進出を阻止するためであった。

なお、セルビアとモンテネグロはともに南スラヴ系民族でパン=スラヴ主義に立ち、 西暦1878年のベルリン会議でオスマン帝国からの独立を承認されていた。 ブルガリアはこの時期にはスラヴ化しており、 ロシアとの関係も強く、 ベルリン条約でオスマン帝国を宗主国として自治権を認められた後、 西暦1908年に青年トルコ革命の混乱に乗じて独立を宣言した。

ギリシャはオスマン帝国からの独立戦争を闘い、 西暦1829年独立を達成していた。 この4カ国は、民族系統は異なっていたが、 共通点はギリシャ正教会の信者が多いことである。

バルカン戦争の勃発と同盟の解体
 バルカン同盟諸国は、かねてからオスマン帝国の衰退に伴うバルカン問題のなかで、パン=ゲルマン主義をとるオーストリア=ハンガリー帝国の侵出に神経をとがらせていたが、青年トルコ革命後も混乱を続けるオスマン帝国に侵攻してそれぞれ領土を拡大しようとしてバルカン同盟を結成、1912年10月にロシアの支援のもとで第1次バルカン戦争を起こした。しかし、この戦争でもっとも広大な地域を占領したブルガリアに対して他の同盟国が反発し、翌1913年6月には第2次バルカン戦争となって同盟は解体した。  同盟解体によって孤立したブルガリアは、他のスラヴ諸国と敵対することとなり、翌年勃発した第一次世界大戦ではドイツ・オーストリアの同盟側に加わることになる。

パン=スラヴ主義

パン=スラヴ主義 / 汎スラヴ主義

バルカン半島のスラヴ系民族の独立と統一をめざす思想であり、 ロシアがその背後にあって、 パン=ゲルマン主義と対立した。

パン(汎) Pan は「全て」を意味する接頭語。 Pan-Pacific、Pan-American、などのように使う。 世界史用語では、パン=スラヴ主義に対抗するパン=ゲルマン主義のほのかにも、 パン=トルコ主義などいくつか出てくる。 「反」の意味ではない。

19世紀以来、 バルカン半島に居住するスラヴ人の諸民族は、 オスマン帝国支配下から脱しようとする動きを強めていった。 ロシアは同じスラヴ系民族と言うことで、 バルカンのスラヴ系民族の独立運動を応援し、 それによって自らのバルカンへの進出という南下政策の足がかりにしようとした。 また、オーストリア帝国の支配を受けていたベーメンのチェコ人の間にもウィーン体制の時期に民族主義が台頭し、

西暦1848年に、 民族主義者パラツキーがスラヴ民族会議を組織している。 この第1回会議はチェック人を中心とした運動であったため、 スラヴ系民族の統一した運動とはならなかった。 会議が弾圧されるとパラツキーはオーストリア帝国内でのチェック人の自治獲得という穏健な主張に転換し、 パン=スラヴ主義運動の中心はロシア人に移っていった。

第1次バルカン戦争

第1次バルカン戦争

西暦1912年春のアルバニアの反乱を契機に、 セルビア・モンテネグロ(ツルナゴーラ)・ブルガリア・ギリシャのバルカン同盟諸国が、 西暦1912年10月、 オスマン帝国に宣戦布告し、開戦した。 バルカン同盟諸国は、 その前年に、 イタリア=トルコ戦争(トリポリ戦争)が起こり、 イタリアがアフリカ北岸のオスマン帝国領(リビア)を侵略したことに刺激され、 青年トルコ革命後のオスマン帝国の混乱に乗じて戦争を起こした。 またオスマン帝国によるボスフォラス=ダーダネルス海峡封鎖を恐れるロシアがバルカン同盟諸国を応援した。 戦闘はバルカン同盟側の勝利に終わり、 翌西暦1913年5月に講和(ロンドン条約)が成立した。 → バルカン問題
12月3日 - 第一次バルカン戦争休戦

戦後の領土分割(ロンドン条約)
オスマン帝国はイスタンブルを除くヨーロッパ領土とクレタ島を失い、 500年に及ぶバルカン半島全土支配が終わりを告げた。 またアルバニアの独立が承認された。 民族運動が遅れていたマケドニアはセルビア・ブルガリア・ギリシャの近隣三国によって分割され、 それぞれの領土的野心の対象となってしまった。 この戦争でブルガリアが勢力を伸ばし、 戦後はセルビアと対立が生じ、 ロシアもブルガリアを警戒するようになる。 それがもとでバルカン同盟は崩壊して第2次バルカン戦争が勃発する。

1912年春のアルバニアの反乱

1912年春のアルバニアの反乱

アルバニア独立戦争としても知られる西暦1912年のアルバニアの反乱は、 アルバニアにおけるオスマン帝国の支配に対する最後の反乱であり、 西暦1912年1月から8月まで続いた。 反乱は、オスマン帝国政府が反乱軍の要求を満たすことに同意したときに終結した。 一般に、イスラム教徒のアルバニア人は、 来たるバルカン戦争でオスマン帝国と戦った。

第2次バルカン戦争

第2次バルカン戦争

第1次バルカン戦争の後、 オスマン帝国領であったマケドニア地方は、 セルビア・ブルガリア・ギリシャで分割することになったが、 その分配をめぐって不満であったブルガリアが、 西暦1913年6月にセルビア・ギリシャに侵攻して戦争となった。 ブルガリアの強大化を恐れたオスマン帝国、 モンテネグロ、 ルーマニアがセルビア・ギリシャ側についたためブルガリアの孤立した戦いとなった。 エンヴェル=パシャの指揮するオスマン帝国軍が1ヶ月の戦闘でブルガリアを破り、 戦争はブルガリアの敗北で終わり、 8月にブカレスト講和条約が締結された。

ブルガリア領の縮小
ブカレスト講和条約でブルガリアは、 エデルネと東トラキアの一部をオスマン帝国に、 南ドブロジャ(黒海沿岸)をルーマニアに、 マケドニアの北部をセルビアに、 マケドニア南部をギリシャに割譲した。 またセルビアのコソヴォ支配は確定し、 ギリシャはオスマン帝国からエーゲ海東岸の島々から獲得した。
ここで領土を縮小したブルガリアはドイツ・オーストリア陣営に接近する。 勝った側のセルビア、モンテネグロなども領土的不満を残し、 第一次世界大戦でもバルカンでの対立はそのまま二つの陣営に分かれて戦うこととなる。

マケドニアの分割
このときセルビア・ブルガリア・ギリシャの三国によって分割されたのが、 かつてのアレクサンドロスの故国マケドニアであった。 そのうちセルビア領となったマケドニアは、 ユーゴスラビア王国の一部となり、 第二次世界大戦後の西暦1945年にユーゴスラヴィア連邦を構成する一共和国となった。 さらにユーゴスラヴィア連邦の崩壊によって西暦1991年に独立した。 しかし、 現在のマケドニアは第2次バルカン戦争でギリシャ領・ブルガリア領となった地域も併合したいと意欲を持っており、 現在も紛争の火種となっている。