小窓
六条天皇/六條天皇(ろくじょうてんのう、ろくでうてんのう)

作成日:2020/6/13

六条天皇は、日本の第79代天皇。

  《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第79代天皇 六条天皇/六條天皇(ろくじょうてんのう、ろくでうてんのう)

[在位] 永万元年6月25日(西暦1165年8月3日)- 仁安3年2月19日(西暦1168年4月9日)《紀》
[生没] 長寛2年11月14日(西暦1164年12月28日)- 安元2年7月17日(西暦1176年8月23日)13歳没《紀》
[時代] 平安時代
[先代] 二条天皇
[次代] 高倉天皇
[陵所] 清閑寺陵(せいかんじのみささぎ)
[追号] 六条院
[] 順仁(のぶひと)
[父親] 二条天皇
[母親] 伊岐致遠(いきの むねとお)

年譜

天皇の系譜(第77代から第95代)
長寛2年(西暦1164年)
11月14日(12月28日) 降誕
(西暦)
() 元服
(西暦)
() 
() 
永万元年(西暦1165年)
7月27日(9月4日) 即位礼
仁安元年11月15日(西暦1166年12月9日)
() 大嘗祭
安元2年(西暦1176年)
7月17日(8月23日) 崩御。於:東山第
安元2年7月22日(西暦1176年8月28日)
() 大喪儀
(西暦)
() 
() 
(西暦)
() 
() 

来歴

数え2歳(満7か月と11日)で親王宣下・立太子し、その日のうちに践祚した。これが歴代最年少での皇位への即位である。その1ヶ月後の7月27日に即位式が行われるが、途中で泣き出して中断したために、参議・中山忠親が赤ん坊には儀式よりも乳の方が大切だと機転を利かせ、慌てて乳母の蔵人頭藤原邦綱女・成子が授乳してやっと落ち着かせたという。政務は外伯父の摂政・近衛基実と邦綱が表向きを取り仕切った。 在位2年8か月で祖父後白河上皇の意向により、叔父の憲仁親王(高倉天皇)に譲位して歴代最年少の太上天皇となった。その後は後白河院の庇護下に置かれたが[4]、これは六条院が反対派に擁されることを防ぎ自己の王権を安定させるための後白河院の措置だったとみられる[5]。その後元服を行うこともなく、数え13歳(満年齢11歳8ヶ月)で崩御、死因は赤痢と言われる[6]。后妃も子もなかった。 父の二条天皇は在世中に親政を行おうとして後白河院と対立した上、異母弟・憲仁親王の擁立を画策したとして、憲仁親王の叔父・平時忠を流罪、平教盛・藤原成親・坊門信隆を解官して後白河院の院政を停止させた。しかし二条天皇の崩御後に、政治の実権を奪われていた後白河院が平清盛と手を結んで甥から叔父へという不自然な皇位継承を実現させた。

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町にある清閑寺陵(せいかんじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。かつては高倉天皇陵と同所にあったが、近世になって区分された。 また皇居では、宮中三殿のひとつ皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


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