小窓
顔回(がんかい)

作成日:2021/8/3

顔回(紀元前521年 - 紀元前490年頃)は、孔子の弟子の一人。
尊称は顔子、諱は回、字は子淵(しえん)、ゆえに顔淵(がんえん)ともいう。
後世の儒教では四聖の一人「復聖」として崇敬される。
魯の出身。

孔門十哲の一人で、随一の秀才。
孔子にその将来を嘱望されたが、孔子に先立って早逝した。
顔回は名誉栄達を求めず、ひたすら孔子の教えを理解し実践することを求めた。
その暮らしぶりは極めて質素であったという。
このことから老荘思想と結び付けられることもある。

末裔に顔良、顔之推、顔真卿が連なる。

人物

生年:紀元前521年
没年:紀元前490年頃
繁体字:顏回
簡体字:颜回
旧字体:顏囘、顏淵
別名 繁体字:顏淵
   簡体字:颜渊
清貧
顔回の暮らしぶりは極めて質素であったという。
『論語』雍也篇などによれば、 わずか一杯の飯と汁だけの食事をとり(「箪食瓢飲」「一箪の食一瓢の飲」)、 狭くてみすぼらしい町に住んだ(「在陋巷」)という。
孔子の高弟
『論語』には顔回への賛辞がいくつか見られる。
たとえば孔子が「顔回ほど学を好む者を聞いたことがない」(雍也第六、先進第十一)や同門の秀才子貢が、 「私は一を聞いて二を知る者、 顔回は一を聞きて十を知る者」(公冶長第五)、 と述べたことが記載されている。
顔回は孔子から後継者として見なされていた。
それだけに早世した時の孔子の落胆は激しく、 孔子は「ああ、天われをほろぼせり」(先進第十一)と慨嘆した。
顔回が貧しく、 食物を手に入れるのすら難しかったとき、 欲のない顔回に「聖人の道に庶い」と評価し(先進第十一)、 「顔回は私を助けることはせず、 ただ黙っているがしっかりと私を理解していると評価した(先進第十一)。

このように『論語』の先進第十一には顔回に関する記述が多く、 中でも顔回が亡くなった「顔回死す」で始まる箇所が数箇所登場し、 これもまた孔子が顔回に対して評価していた証拠と言える。

『史記』仲尼弟子列伝第七によると、 好学であることに加えて「怒りを遷さず、過ちをふたたびせず」と孔子に評されている。
また、29歳で頭髪がすべて白髪だったという。

『呂氏春秋』審分覧任数篇には、「陳蔡之厄」の際の「顔回攫食」説話が伝わる。
その他、 『荀子』哀公篇と子道篇、『韓詩外伝』巻二、 『新序』雑事五などにも登場する。
名称
『説文解字』によれば「淵」という漢字には「回水」(滞留する水)という意味があるため、 顔回の諱と字は対応している。

道家・新出文献との関係

清貧を重んじた人物像などから、顔回はしばしば道家と結び付けられる。
玄学の時代に書かれた『論語集解』では、 先進第十一に出てくる「空」字に関して、 顔回を道家の人物であるかのように解釈している。

『荘子』では、 孔子と顔回の二人の会話がしばしば描かれ、 特に大宗師篇では、 二人が儒家思想を否定して道家思想を肯定する、 という会話が描かれる。
このことにちなみ、 郭沫若は、 荘周が儒家八派の一派「顔氏之儒」出身の人物であると推測している。

20世紀末、顔回が登場する新出文献がいくつか発見された。
その例として、上博楚簡『顔淵問於孔子』、同『君子為礼』がある。
この内『顔淵問於孔子』は、 その道家的内容から、 荘周後学の著作とする推測がある。

受容

後漢代には、 王充『論衡』(主に幸偶・命義・偶会篇)、 鄭玄『論語注』、 禰衡『顔子碑』、 『後漢書』孔融伝所載の禰衡と孔融の会話などで顔回が言及されており、 それぞれの顔回像が伺える。
特に『論衡』では、従来の文献に見られない顔回死去説話が語られる。

三国魏以降、 釈奠において孔子に従祀され、 また後世では、 四聖の一人「復聖」として崇敬される。
山東省曲阜市には、顔回をまつる廟(顔廟。復聖廟ともいう)がある。

日本の千利休は、 質素を重んじるわび茶の精神から、 茶道具の瓢花入に『顔回』の銘を与えた。