顔回(紀元前521年 - 紀元前490年頃)は、孔子の弟子の一人。
尊称は顔子、諱は回、字は子淵(しえん)、ゆえに顔淵(がんえん)ともいう。
後世の儒教では四聖の一人「復聖」として崇敬される。
魯の出身。
孔門十哲の一人で、随一の秀才。
孔子にその将来を嘱望されたが、孔子に先立って早逝した。
顔回は名誉栄達を求めず、ひたすら孔子の教えを理解し実践することを求めた。
その暮らしぶりは極めて質素であったという。
このことから老荘思想と結び付けられることもある。
末裔に顔良、顔之推、顔真卿が連なる。
清貧を重んじた人物像などから、顔回はしばしば道家と結び付けられる。
玄学の時代に書かれた『論語集解』では、
先進第十一に出てくる「空」字に関して、
顔回を道家の人物であるかのように解釈している。
『荘子』では、
孔子と顔回の二人の会話がしばしば描かれ、
特に大宗師篇では、
二人が儒家思想を否定して道家思想を肯定する、
という会話が描かれる。
このことにちなみ、
郭沫若は、
荘周が儒家八派の一派「顔氏之儒」出身の人物であると推測している。
20世紀末、顔回が登場する新出文献がいくつか発見された。
その例として、上博楚簡『顔淵問於孔子』、同『君子為礼』がある。
この内『顔淵問於孔子』は、
その道家的内容から、
荘周後学の著作とする推測がある。
後漢代には、
王充『論衡』(主に幸偶・命義・偶会篇)、
鄭玄『論語注』、
禰衡『顔子碑』、
『後漢書』孔融伝所載の禰衡と孔融の会話などで顔回が言及されており、
それぞれの顔回像が伺える。
特に『論衡』では、従来の文献に見られない顔回死去説話が語られる。
三国魏以降、
釈奠において孔子に従祀され、
また後世では、
四聖の一人「復聖」として崇敬される。
山東省曲阜市には、顔回をまつる廟(顔廟。復聖廟ともいう)がある。
日本の千利休は、 質素を重んじるわび茶の精神から、 茶道具の瓢花入に『顔回』の銘を与えた。