小窓
小窓集(明治時代)

作成日:2024/11/9

違式詿違条例(いしきかいいじょうれい)

違式詿違条例(いしきかいいじょうれい)

違式詿違条例は、 軽微な犯罪を取り締まる刑罰法で、 現代の軽犯罪法の起源であるといわれる。 「違式」は故意、「詿違」は過失の犯罪をいう。

明治5年(西暦1872年)11月に東京府下違式詿違条例(全54条)として公布されたものが初めであり、 翌年7月19日に全国での施行を促すため、 「各地方違式詿違条例」が太政官布告第256号として公布された(全90条)。

開渠(かいきょ)

開渠(かいきょ)

開渠とは、 地上部に造られた給水・排水を目的とする水路のことで、 蓋などで覆われていない状態のものを指す。 明渠(めいきょ)ともいわれる。

ちなみに地中に埋設された水路は「暗渠(あんきょ)」といわれ、 開渠暗渠の総称は「管渠(かんきょ)」といわれる。

開渠の例:農業用水路と水田を繋ぐ用水路、 洪水を防ぐための放水路など

小菅県(こすげけん)

小菅県(こすげけん)

小菅県は、 西暦1869年(明治2年)に武蔵国内の旧幕府領・旗本領の管轄のために明治政府によって設置された県。 現在の東京都足立区・葛飾区・江戸川区および江東区の旧・城東区にあたる地域、 荒川区のごく一部、埼玉県草加市の大部分、千葉県東葛地域を管轄した。

西暦1869年(明治2年)1月13日、 武蔵知県事・河瀬秀治の管轄区域をもって小菅県が設置された。 県名は、県庁が葛飾郡小菅村(現東京都葛飾区小菅一丁目35番1号)の旧幕府小菅御殿(旧関東郡代小菅陣屋、現東京拘置所)に置かれたことによる。 東京府(第1次)との管轄区域の交換を経て、 主に東京の北東郊外を管轄した。

河瀬知事の発議により、備荒貯蓄と窮民救済の機関として、 七分積金に類する報恩社を組織している。

西暦1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県を経て、 同年11月14日に第1次府県統合により東京府(第1次)および品川県と合併して東京府(第2次)となった。

シカゴ万国宗教会議

シカゴ万国宗教会議  出典

西暦1893年にシカゴで聞かれた万国宗教会議は、 世界中の歴史的宗教の代表者を一堂に集め会議を開くという、 当時としては実に画期的なイベントであった。

万国宗教会議は、西暦1893年5月15日から10月3日までのおよそ 5ヶ月間にわたりシカゴで開催されたシカゴ万国博覧会のl大イベントとして計画された。 シカゴ万国博覧会は、コロンプスのアメリカ大陸発見400周年を記念して催されたが、 同時に12年前の大火からめざましく復興したシカゴの姿を祝うものでもあった。 シカゴは 当時アメリカ中で最も経済成長を続けていた都市で、ホワイトシティーと呼ばれた人工の街を会場に聞かれた。 会場とシカゴの中心街は最新の高架式鉄道で結ばれ、 会場には当時の技術力を結集した直径75メートルの世界初の大観覧車が建造された。 また、 そのような技術文明の粋を集める展示と並んで、 シカゴ万国博覧会ではさまざまな文化的なベントも開催された。

その中でアメリカの自由主義神学者たちが中心となり、 キリスト教諸派、ユダヤ教、ヒンズー教、イスラム教、仏教、神道、儒教、道教などの代表者に招聴状を送り、 世界中の41の宗教からおよそ210名の55教からは小崎弘道が参加した。 また仏教側の通訳として野口善四郎が、 さらに臨済宗の釈の個人的な通訳として野口洋三が先の4名の僧侶とともに渡米し、 既にアメリカに滞在し英語に堪能であった仏教徒の平井金三も現地で合流した。

襲封(しゅうほう)

襲封(しゅうほう)

子孫または諸侯が領地を受け継ぐこと。

外濠(そとぼり)

外濠(そとぼり)

外濠とは、 かつての江戸城の堀のうちの外側のものの総称である。 かつては水路で江戸城を取り囲み、 また内濠や東京湾(江戸湾)ともつながっていた。 現在は、外濠にほぼ沿う形で外堀通りが通っている。

西暦1970年代の飯田濠埋め立てまで、 濠を埋めることが度々行われてきたが、 現在では都市景観の一つとして保存していこうとする考えが一般である。

外濠沿いに本社を有するヤフーや前田建設工業など19社が、 水の流れの復活で外濠を浄化・再生しようと「外濠水辺再生協議会」を立ち上げ、 企業連合を作って市民と連動して景観を良くしていこうという動きが見られる。

外濠」の語を広い意味で用いる場合、 その経路はおおむね、 現在の東京都千代田区から神田地域を除いたもの(旧麹町区)の外周である、 と言うことができる。 またこれに加えて、 飯田橋以東の神田川下流部までを外濠に含める場合が少なくない。

農民騒擾(のうみんそうじょう)

農民騒擾(のうみんそうじょう)

広義には農民が引き起こした一揆(いっき)、騒動、争議などの騒擾一般をさすが、 ここでは、明治前期において政府の諸政策およびそのもたらした諸結果に反対して展開された一揆などの騒擾をさす。

ハワイ官約移民

ハワイ官約移民

日本とハワイ王国の間で交わされた「移民協約」に基づいて、 砂糖農園に入植するために、 西暦1885年から西暦1894年までの10年間に、 2万9000名あまりの日本人労働者がハワイ諸島へ渡航した。 サトウキビのプランテーションで3年間就労するという契約で海を渡った彼らは「官約移民」と呼ばれている。

明治17年の台風

明治17年の台風

明治17年(西暦1884)8月25日、 沖縄の西方より高速度で北東に進んだ台風は九州北部を通過し、 鳥取県境港付近より日本海に去った。

愛媛県松山市(北条市地方)で溺死者3人、 岡山県福田地区(北畝・中畝・東塚・南畝・松江)で高潮による浸水被害が広範囲に発生した。破壊流失した家屋742戸、犠牲者536人、 広島市内や佐伯郡では126名が亡くなったなどの被害が発生した。