明石花火大会歩道橋事故は、
西暦2001年7月21日に兵庫県明石市で発生した群衆事故である。
11名が死亡し、183名が負傷する被害を出した。
明石市と兵庫県警察の警備体制の不備や警備会社を含めた事故後の対応が問題となり、
マスコミでも報じられた。
西暦2001年7月20日より明石市大蔵海岸にて「第32回明石市民夏まつり花火大会」が行われた。
開催2日目となる7月21日の午後8時30分頃、
西日本旅客鉄道(JR西日本)山陽本線(愛称:JR神戸線)朝霧駅南側の歩道橋において、
駅から来た客と会場からの客が合流する南端で、
1平方メートルあたり13人から15人という異常な混雑となり、
「群衆雪崩」が発生した。
その際、周囲に知らせるために歩道橋の屋根上にまで登る人も続出した。
事故により、11名が全身圧迫による急性呼吸窮迫症候群(圧死)等により死亡し、
183名が傷害を負う被害を出す惨事となった。
死亡した11名は、小学生以下の児童(9名)と70代の女性(2名)であった。
西暦2005年11月、
この死亡事故を教訓として警備業法と国家公安委員会規則が改正され、
警備業務検定に従来の常駐警備、交通誘導警備等に加え、雑踏警備が新設された。
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原因
会場の大蔵海岸と朝霧駅との間には国道2号が通っており、
歩道橋以外の連絡がなかったことが大きな原因の一つであった。
この歩道橋以外のアクセス経路としては、
朝霧駅東側の踏切や西側の跨線橋があったが遠回りになり、
山陽電気鉄道本線の大蔵谷駅や西舞子駅があるものの会場から遠いという難点があった。
加えて暴走族との衝突が発生しても警備がしやすいという理由から、
歩道橋から続く市道に180店の夜店を配置していた。
この結果、事故現場の歩道橋がボトルネックとなり、
歩道橋上で駅から会場に向かう人の流れと会場から駅に向かう人の流れが衝突して滞留が発生した。
主催者側も迂回手段についてのアナウンスを行わず、
さらに当日は蒸し暑く、
歩道橋が透明なプラスチックの側壁に覆われた構造のため蒸し風呂状態となり、
心理的に焦りが発生したことも事故発生の要因の一つとなっている。
警備上の問題
事故後、兵庫県警察の対応や警備計画の問題点が明らかになった。
この花火大会にあたり、明石市と兵庫県警察本部(明石警察署)、
警備会社のニシカンとの間で事前の警備計画の協議が不十分だったことや、
7か月前の
西暦2000年12月31日に行われた「世紀越えカウントダウン花火大会」の警備計画書をほとんど丸写しにしていたことが判明した。
さらにその計画書もコンサートなどのイベント用に設計されたものを流用しており、
「世紀越えカウントダウン花火大会」の開催時(約5万5000人が参加)にも同様の滞留が起きて軽傷者が出ていた。
約15万人から20万人の参加者が予想されていた本大会には、
この問題点が生かされていなかった。
また兵庫県警察が暴走族対策を重視して夜店の配置を集中させ、
暴走族対策の警備要員を292名配備していた一方で、
雑踏警備対策には36名しか配備されず、
雑踏対策が軽視されていた。
ニシカンは、
事故直後の新聞に「茶髪の青年が無理に押したので群衆雪崩が発生した」「茶髪の青年たちが歩道橋の天井によじ登って騒ぎ不安を煽り立てた」と証言して責任逃れを図ろうとし、
マスメディアの報道ではこの証言を元とした評論も見受けられた。
ところが後日の調査によれば、
実際はその茶髪の青年たちは歩道橋中央での惨事を通報するため、
歩道橋のプラスチック壁を破壊して屋根に登り、
歩道橋への群衆流入を阻止しようと惨事を皆に伝え、
119番で救急車を要請していたことが判明した。
事故当時、電話回線が混雑しており、
携帯電話を用いた110番通報はつながらない状態であった。
事故発生当時の明石市長の岡田進裕は、
この事故と同年12月30日に発生した大蔵海岸での明石砂浜陥没事故の責任を取り、
任期途中の
西暦2003年の統一地方選挙前に市長を辞職した。