小窓
ローマ神話の人物

作成日:2024/3/18

アイネイアス

アイネイアスあるいはアイネアースは、 ギリシャ神話およびローマ神話に登場する半神の英雄である。 ラテン語ではアイネイアスと表記される。 日本語では長音記号を省略しアイネイアスアイネアスアエネアスとも呼ばれる。 後のローマ建国の祖となったといわれる。
古代ローマでは敬虔な人物として知られていた。 彼を主人公とした作品に詩人ウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』がある。

トロイア王家の人物アンキーセースと女神アプロディーテー(ウェヌス)の息子で、 トロイアの王プリアモスの娘クレウーサを妻とし、 息子アスカニオス(アスカニウス、別名ユールス、イウールス)をもうけた。

アイネイアストロイア戦争におけるトロイア側の武将で、 トロイアが陥落した際父アンキーセースを背負い、 幼いアスカニオスの手を引いて燃える都から脱出した。 イタリア半島に到着後、 ラティウムの王ラティヌスの娘ラウィニアを娶って新市ラウィニウムを創建したとされる。

その子アスカニウス(ユルス)がラウィニウムを義母ラウィニアに譲ったあと、 古代イタリア半島中部のラティウム地方にあったとされるラテン人の都市国家アルバ・ロンガを建設した。

神話

アイネイアスの誕生

アイネイアスはアンキーセースとアプロディーテーの息子である。 トロイアの名祖トロースに3人の息子イーロス、 アッサラコス、ガニュメーデースがおり、 そのうちイーロスの孫がトロイアの王プリアモスである。 一方、アイネイアスの父アンキーセースはアッサラコスの孫であり、 したがってアイネイアスはトロイア王家の傍系にあたる。

アイネイアスの母がアプロディーテーであることは『イーリアス』の中でしばしば述べられ、 ヘーシオドスも『神統記』で述べており、古くから知られていた。 『ホメーロス風讃歌』によれば、 ゼウスアプロディーテーが神々を人間と結びつけているのを見て、 アプロディーテーが自慢したりしないようにアンキーセースへの恋を吹き込んだのでアイネイアスを身ごもったという。 アイネイアスの名の由来はこのときアンキーセースがアプロディーテーの正体を知って大いに恐れたことによる。 アイネイアスは生まれると5年間ニュムペーに育てられたのちアンキーセースのところに連れてこられ、 その後姉ヒッポダメイアとその夫アルカトオスのところで育てられた。 成長したアイネイアスは常に神を敬う人物だったので多くの神々の援助を得た。 アキレウスがイーデー山を攻撃したときアイネイアスはミュルソーネスに逃げた。 アキレウスはさらにミュルソーネスを滅ぼしたが、ゼウスは彼を逃がし、 以降トロイア戦争に参加した。 トロイア戦争ではヘクトールに次ぐ武勇を謳われた。

イタリアへの旅

木馬の計略によってトロイアが陥落した際、 アイネイアスは父アンキーセースを背負い、 幼いアスカニオスの手を引いて燃える都から脱出した(以下、ラテン語表記で紹介する)。

トロイアの船団はデーロス島で祖先の地を目指せとの託宣を得て、 初めはトロイアの始祖テウクロスの来たといわれるクレータ島に上陸した。 しかしクレータではなく同じくトロイアの祖先ダルダノスが住んでいたとされるイタリア半島が目指すべき場所であることを知り、 改めて海に出た。 アイネイアスはメッシナ海峡を避けシケリア島を時計回りに迂回するコースを取りイタリアを目指したが、 途中寄港したドレパヌム(ドレパノン)で父アンキーセースが病死した。

その後女神ユーノー(ヘーラー)が起こした嵐のためにコースを大きく外れるが、 ネプトゥーヌス(ポセイドーン)に救われ北アフリカに漂着する。 この地でアイネイアスはカルターゴー(カルタゴ)の女王ディードーと出会い、 互いに愛し合うようになる。 しかし、これを見たユーピテル(ゼウス)がメルクリウス(ヘルメース)を使わしてトロイアの再興のためにイタリアへ渡るよう警告する。 神意を受けアイネイアスはカルタゴを去り、残されたディードーは自殺した。

イタリア半島に到着後アイネイアスはクーマエ(キューメー)において、 巫女シビュラ(シビュレー)の導きによって冥界に入り、 そこで亡き父アンキーセースと再会した。 アンキーセースは、 アイネイアスの子孫が未来のローマの英雄となることを告げた。 冥界から戻ったアイネイアスは、 北上し新たなトロイアを築くべき土地であるラティウムに上陸した。

この地で現地の王ラティーヌスの娘ラウィーニアと婚約をするが、 それまでラウィーニアと婚約していたアルデアの王トゥルヌスはこれに反対しトロイア人とトゥルヌスの率いるルトゥリー人との間で戦いが起こった。 『アエネーイス』では周辺のラティウムの都市もトゥルヌス軍に加わり、 ラティーヌスも自ら望まぬながらもトロイア人に敵対した。 さらにトゥルヌスにはエトルリアの王メーゼンティウスも助勢した。 一方アイネイアスはラティウム人と敵対していたアルカディア人を率いるパッランテウム(パランテイオン)の王エウアンデル(エウアンドロス)を味方とし、 その息子パッラス(パラース)が軍勢に加わった。 また僭主であったメーゼンティウスを追放したエトルリアの諸都市もアイネイアスに助勢した。 こうした両者の間で激しい戦いが行なわれ、 パッラスやメーゼンティウスなど多くの将が命を落とした。 最終的にはトゥルヌスとアイネイアスとの一騎討ちでアイネイアスがトゥルヌスを殺し、 戦いは終わった。 アイネイアスはラウィーニアと結婚し新市ラウィニウムを築いた。

『アエネーイス』の影響でこの伝承が一般的となっているが、 ティトゥス・リウィウスによると細部が異なる。 アイネイアスはラティウム到着後、 ラティーヌスからラウィーニアを妻としてもらい同盟を結んでいる。 これを不服としたトゥルヌスがアイネイアスとラティーヌスに戦いを挑むが、 この戦いはトロイア方が勝利する。 しかし勝利したアイネイアス側もラティーヌスをこの戦いで失った。 敗れたトゥルヌスはメーゼンティウスの率いるエトルリア人の助けを得、 再びトロイア人とラティウム人に戦いを挑む。 この戦いでも再びアイネイアス側が勝利したが、 アイネイアス自身は戦死したとしている。 他方、オウィディウスの伝えるところによれば、 アイネイアスはその死期に臨んでウェヌスによって身を浄められて神となったとされる。

ラウィニウム

ラウィニウムは、 アイネイアスがラティウムの王ラティヌスの娘ラウィニアを娶って創建した新市である。

ローマ神話によれば、 ローマとラウィニウムの関係は深く、 ラウィニウムと名付けたのはアイネイアスで、 妻でありラテン人の王だったラティヌスの娘ラウィーニアに因んだものとされている。 トロイ王家の血筋とされるアイネイアスは、 アイネイアス自身が建設したのはローマではなくラウィニウムだったが、 後にラウィニウムの人々がローマ建国に関わることになる。

イタリアに到達すると原住のルトゥリ族のリーダートゥルヌスと戦った。 ラウィニウム建国とトゥルヌスとの戦いはウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』に描かれている。

古代においては、ラウィニウムは近くのラウレントゥムと密接な関係があった。 リウィウスによれば、 ロームルスとティトゥス・タティウスがローマを共同統治していた紀元前8世紀、 ラウレントゥムの大使がローマを訪れたが、 タティウスの親族がこれを殺害した。 ラウレントゥム人は抗議したが、 タティウスは親族の証言を信じ、 ラウレントゥム側の話を聞かなかった。 後にタティウスが毎年行われる祭礼のためにラウィニウムを訪れたとき、 騒動が起きてタティウスが殺害された。 しかしロムルスは戦争を回避し、 ローマとラウィニウムの協定を更新した。

伝承成立の側面

紀元前4世紀ごろからローマ人の間でアイネイアスの伝承が普及したと考えられている。 しかし、その伝承を壮大な叙事詩に歌い後世に大きな影響を与えたのは、 ウェルギリウスの『アエネーイス』である。 詩人たちのパトロンであり、 アウグストゥスの友人でもあったガイウス・マエケナスは、詩人たちにアウグストゥスを称えた詩を作るよう要請していた。 ウェルギリウスはこれに応え、 アウグストゥスが属したユリウス氏族が祖先と主張するアイネイアスを長編の詩に詠うことによって、 アイネイアス伝承を豊かにし、 ユリウス氏族の使命を神秘化することによって、 アウグストゥスによる元首政を堅固なものにすることに寄与した。

因みに伝承ではアエネアースの長男アスカニウスは父と新しい母と離れ、 遠方の土地にアルバ・ロンガを築いた。 後にこの都市は義母と父との間に生まれた異母兄弟のシルウィウスに譲られ、 シルウィウスの遠い子孫であるロームルスとレムスの双子の兄弟がローマを建国する事になる。 つまりラテン人とトロイア人の血を引く王家に端を発する訳であるが、 これもより古い民族と自民族の関連を望んだ民族神話の一種であろう。

アイネイアス神話の成立

古代ローマにおけるアイネイアス神話は、 紀元前4世紀にラティーヌス神話をそっくり模倣したものであると考えられている。 ラティーヌスは、 ラテン人が毎年アルバーノ山(現カーヴォ山)でユピテル・ラティアリス神に犠牲を捧げるとき、 神話上の父祖たる王を呼ぶとき使った名称である。 現に、ラティーヌスの名が記された紀元前6世紀の文字が記された土器の破片が出土している。 また、ローマ西方の海岸のラウィニウム(現プラティカ・ディ・マーレ)で発掘された墳墓はラティーヌスに奉献されたものと考える研究者もいる。